けぶるとばかりに

 

雨が降っていた。

季節は4月も半ばであるというのに、雨の勢いは激しく、まるで散弾銃が上空に仕掛けられているようで、風はそれ以上に強い。

音も音で相当に激しく、思考の間に割り込み、その働きを時たま邪魔するのに全く無理はない程である。

 

4月だというのに。

 

とは言っても、五十嵐は特に春の気象について知識がある方でも、別段興味がある方でもなかったので、今朝の麗らかな陽気とだけ比べて溜息を吐いた。

まるで、夏の夕立のようだが、空はもっと暗く湿っていて威圧感がある。

 

22時7分。

椅子の背もたれをギシリと僅かに軋ませながら、時刻を確認した。

五十嵐が2階にある自室の勉強机に向かうと、壁の掛け時計とその真下にあるシングルベッドは、丁度彼の背中にある。

1階の屋根を反射板として経由する、朝陽がよく入ってくる大きめの窓は左側になるが、今この時分とこの天気では、世界がひっくり返ったって日光は見えそうにない。

 

「(明日までに止んでくれないと気分は晴れないが、)」

それでも、この時分だからこそ日課である闘球の練習には関係がなくて、取り分け感傷的になる訳でもない五十嵐は、晴れていた方がロードワークには都合良いと薄らぼんやり考える。

 

風に呷られるだけ呷られ、土砂降りの雨は激しく窓に打ち付けている。

だから上空の散弾銃だ。ダダダダ、と時折窓をうち鳴らすのだ。

 

五十嵐は知っていた。

「こういう日」によくやってくるのだと。

少なくとも、今までの2回はそうであった。

もっとも、2回のうちどちらも雨は降っていなかったけれど。

 

風の向きが窓側から少しでも逸れれば、ザアザア、という深夜放送終了後の砂嵐が最大音量で落ちている。

木造建築の家の窓は、それほど丈夫でもなく、かといってそれほど弱々しくもなく、強風と暴風の中間をガタガタと、寝付くのには少しばかり煩い音で受け止めている。

ぼんやりしていたら聞き逃していたかもしれない。

そのガタッ、ガタッ、と揺れる音の中に、コツン、コツン、と水のぶつかる音でない物が混じった。

 

もしや。

五十嵐はハッと窓に目を向ける。

それでも、まさかこんな雨の日に。

沢山の可能性と耳を疑ってはみたが、それが人為的な物であって、風雨が攫ってきた小枝などの仕業ではないことは、音と音の規則的な間隔で明らかである。

誰かがガラスを叩く音だ。

 

五十嵐は自分の考えに一瞬どきりとし、急いだ。

椅子から窓までは、部屋主の大股の半歩弱。

サッシに手をかけ横に引けば、待ち構えていたかのように、僅かの隙間から粒の大きい雨水が飛び込んでくる。

構わず引き窓を全部滑らせきると、見えたえんじの屋根に上には影。

息が詰まりそうであった。

不安をごくりと飲み込み、しっかり前を見据える。

そこに居たのは、冷たい物を全て背に受け、一人佇む芯まで濡れた少年だった。

 

「…大河さまっ!」

「五十嵐、中に…」

「早く、早くお入り下さい。さあ、」

手をひくようにして触れた肌の冷たさに、軽く緊張を覚える。

しかしこんな風な事は今日が初めてではない。

数えてみれば、今年に入って3度目にもなるのである。

しかし、雨が降っていたのは初めてであって。

桟の下で靴を脱いだ大河は、足の指の爪の中まで濡れているようであった。

トンと、大河の足が軽い音をフローリングに立て、窓はピシャリと閉まる。

すっかり身体を部屋の中に収まった身体は、小さな水たまりを幾つもつくり、足は一つ一つを踏みしめるようにして動かされた。

 

「そこに居て下さい。今タオルを持ってきますから。」

なかばへたり込むようにして、ぐったりと床に腰を下ろす。

自身の溜息と一緒に、大河は何をするでもなく、白い壁紙の部屋の隅に目をやった。

部屋の中で雨露が凌げるという、ごくごく自然なことに軽いめまいと一緒に違和感を覚えて、見る。

温もりを求め、少しばかりでも暖かい空気に触れようと手を伸ばし探すが、どこも大して変わりはなかった。

背もたれにしている、勉強机へ真向かったシングルベッドのシーツには、今着ているポロシャツなり、指先なりが触った所から順々染みができていて、爽やかな青の色は次第に冷えていく。

自分が近くに寄っては、濡れてしまのうではないかと、先に少し考えて聞いていたが、構いません。と念を押すように言われたので、言葉通り構わないことにした。

 

一度座り込むと、途端に体を動かすのが億劫になる。

頭はずっしり中から重い。

もうすぐこの部屋に、五十嵐はタオルを持って帰って来て、それから風呂に入れと伝える。

目を瞑って情景を想像した。

きっと、そういうふうになる。

雨の生臭さが鼻腔を刺激し、吐き出す息までもが重くなっていき、大河は頸動脈のうねりをどくんと感じる。

きっとそういうふうになって、

それで、それから、

 

「大河さま。残り湯で申し訳ないのですが…」

トントントンと、テンポよく階段を駆け上がる音がだんだん大きくなり、最後にはガチャリとドアノブの回った音と、5分ぶりの声がした。

それから…どうすべきか。

続きは考えつかなかった。

目を開ければ五十嵐の姿が丁度見えたので、促されるまま一旦部屋を後にすることにした。

「(どうしたいのだろう、)」

バスタオルはまず白色で、洗濯石けんの匂いはどこか優しい。

 

 

蛇口をひねれば、温かい湯の玉がシャワーとなって落ちてくる。

外でいるのとは全く違ったその感触が、冷えきった身体に、嬉しかった。

 

 

部屋に戻ると、カップ1杯分湯気のたつホットココアが用意されていて、それを口に含んでから、大河は再びベッドに体を預けた。

二階堂家のよりは幾分小さいが、まだ丈の伸びきっていない小学生を受け止めるには充分である。

シングルベッドの側面はギシリとスプリングを鳴らして背を受け入れ、それきりしばらく、大河も五十嵐も黙った。

五十嵐の用意した、どう見積もっても大河には大きすぎるTシャツが、肌にこすれる。

正確にこの場を表現するならば、黙ったという表現は適切ではないかもしれない。じっと座っている大河に、五十嵐はあれやこれやと思案考察しながら、口を開く機会を伺っていた。

 

「それで…、 どうされたんですか。こんな夜に…」

自分の椅子の上から、時間を置いて訊いた。

傘も持たずに、と付け加えたかったがなるべく取り調べるふうな問い詰めはしたくない。

自ら何も語ろうとしないというのは、その件について自ら触れたくないか、もしくは逆に訊ねてもらいたくて仕方がないかだ。

まさか後者ではあるまい。だとすれば今流れている微妙な空気の時間など存在し得ないではないか。

なるべく傷つけたくはないのだ。

何より、大河さまが、だ。

たくさんの推測と一緒に脳を回した。

それでもわざわざ雨の日に窓から家を訪問した理由は、例え形式的にだって訊ねるのが向かい入れた側の義務である。

きっと、恐らく。

 

充分間をとって口を開いたつもりだった。

ちらりと窓の外に目をおくる。

細かい水しぶきの中は、用事があっても、例え傘を持ってでもあまり歩きたくはない。

大河の視線に五十嵐は入っていないようで、何も言わずに只視線を、どこか遠い所へ向かって投げ掛けているだけだった。

こんな雨の日に。

あんなに濡れて。

 

コチリ、コチリ、と秒針だけは休まずに動きを続けている。

結構な時間が経った。五十嵐が主観的に思っただけで実際にはそれほどではないのかもしれないが、とにかく五十嵐は思った。

「ちょっと嫌な気分になってね。」

先に口を開いたのは大河で、ギュッと強くマグカップを握り締めると、息を吐く延長のような口調で喋りだした。

虚ろな瞳は変わらない。前の2回も同じようなことを言っていたと思う。

「それで、家を出たんだ。」

「傘は持ってでたんだよ。だけど、」

 

「『途中で壊してしまって』、ですか?」

「…ああ。そうなんだ。」

まさか、本当に道中で傘が壊れたのだと思っているわけではない。

大河がそう返すと思っただけだ。

第一人間というものは、傘がなければないなりに、濡れないようにして道を歩くものではないだろうか。

五十嵐はそうも思った。

 

雨が降っている。

ふと時計に目をやると、あとほんの少しで短針は、ぴったりと11の位置へ収まろうとしていた。

「もう遅いですね。」

「…」

「いえ、そういった意味じゃないんです。居て下さい。何時まででも構いませんから。」

慌ててみせたが彼は顔色を変えない。

どこか淋し気で、どこか愁いを秘めている。

大河の容姿は見慣れている筈だが、張り詰めたようなこの表情を目にしたことは、今まででも数える程しかない。

数えるならば3度、くらいしか。

少なくとも日中の彼は明るい性格なのだ。

「ただ、」

「五十嵐。」

宙を見据えながら言った

「ちょっとうちでね、嫌な気分になったんだ。 聞いてくれるかい?」

「勿論ですよ。話して下さい。」

未だ乾ききっていない金色の髪が揺れて、彼は視線のやり場を五十嵐へと変えた。

五十嵐は見上げられたその顔に、少し赤みが戻っていたので安心した。

 

 

 

 


back   next