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雨がざあざあと降っている。
「明日、練習試合があるだろう?」 「ええ。」 壁に掛けたカレンダーには、几帳面に書き込まれた赤いマルと、簡単な時刻のメモ書きがあった。 今日は土曜日。あと1時間も経たずして日曜日になる。 「パパがね、家に帰ってたんだ。今日、久しぶりに。」「隣の部屋に居たパパの声が、聞こえて。」 意識はしてないがゆっくり口を開く。 「なんでも、僕が闘球をやるのを、よく思ってないらしいんだ。 …前にも言ったかい?」 「---確か。」 「前はね、何となくそう思ってただけなんだけど。はっきり聞いたんだ。初めて。」 「こっそり、隣の部屋からね。」 胸の中がぐるぐるする。 イライラしている、というよりは腹立たしくないのだがどうも気分がよくない。 どのくらい気分が悪いのか、と聞かれると大した程度ではない。 胸の中がぐるぐるする。春の雨のせいなのかもしれない。 それだけなのだ。 「別に僕はそんなのどうだって良いんだよ。 パパは、どう思っていようと僕のやりたいようにやらしてくれる。」 今まで無表情にしていたのを申し訳なく重い、出来る限り笑む。 余計な心配はかけさせてくないし、かけられたくもない。ちなみに嘘は吐いていない。 すうっと息を吸い込んだ。 真剣な五十嵐の顔を見ると、ふっ、と小さい笑いが零れた。 「…えーっと。」 「あはは。 そんな深刻な話じゃないんだ。」 「あ。はい。」 「それでね、」 大河は続けた。 マグカップの中のココアは、まだ辛うじて湯気を立てている。 窓枠に垂れる雨の水量に相反して残りは少ない。
『僕のパパは、ママのことをそんなに大好きでもないらしいんだ。』 『いや、パパがそう言ったわけじゃないよ。僕がパパの素振りや口調から思っただけさ。 …変な詮索だけどね。』 『余計なお世話かもしれない。』 『あ。別に大嫌いで、話もしないかというと、そんなことは全然ないんだ。 …ああ。そんな深刻な話じゃないんだよ。心配しないで。 普通に、喋る時は優しいし。勿論僕にもね。』 『僕は、…パパだって親子である前に、一人の男でもあるし。誰を一番に愛しようが構わないと思ってる。』 『只、端から見て分かるんだ。パパが一番に好きなのは仕事で、ママでも、僕でも他のなにかの趣味でもない。 それなのに』 『言うんだよ。パパは。ママに「愛してる」って。 瞳も見ないで。』 『それ聞いたらさ、なんだか気持ち悪いような、恥ずかしいような。…とにかく、何だか変で妙な気持ちになっちゃって。』 『馬鹿らしいだろう? 同じ家に居辛くなって、こっそり抜け出てきてしまった。』
五十嵐は、無意識に前に大河が家に来て漏らした台詞の固まりを、1つ1つ頭の中で再生していた。 今と同じように、少しだけ隠すように、笑いながら話したのを覚えている。現在進行形な、照れくさそうに口を動かす目の前の彼の台詞と重ね合わせても、大した違いはなかった。
「気付いたら家を飛び出していた。」 しかし最後の台詞の末尾は違っていた。 「…成る程。」
『明日は用事があるんだろう。もう今日は寝た方が良いんじゃないのか。』 「?…あっ。」 「ふふっ。隣の部屋で、僕が聞き耳立ててるって気付いたのか、いきなり戸を開けてやってきて言ったんだよ。パパが。」 「『早く帰ってきなさい。』って、その後に。」 スイッチが入ったように喋り出した大河の一語一語は、いつもの弾む様な音程で、それを五十嵐は愛くるしいと思った。 「…いったいどうしてこんな些細な事に腹を立ててしまったんだろう?可笑しいな。」 笑っている。 けれど悲しそうに。 否、それを察されないように巧妙に。
大河の口調は、特にこんな時の大河は歳相応でない。 実年齢より5つか6つぐらいも年上に見える。 最も五十嵐はそこが好きだったのだけれど、自分にはずっと触れることのない、何か得体のしれない大きな物を抱えて、不安定になっている彼の心中と、乾ききっていない彼の前髪を覗くと、今はとてもそんなことを口に出せそうになかった。 いつもの勝ち気な彼は、いったい何に怯えて溜め息を吐くのだろう。 その影は、漠然としてはいるが形は分る。しかし細部は見えていそうで靄がかっている。 靄の正体はきっと彼以外知るよしもない。 その他は、完全に理解することは難しいだろう。 そして、自分はいつまで、こうして窓から彼を迎え入れることが出来るのだろう。と、そう思って横顔を見つめると、途端に切なくなる。
「大河さま、」
「また元気に明日が迎えられれば。 それで、…いいんですよ。」 五十嵐が搾り出した精一杯の言葉に、大河は目を細めた。
「そうだねえ。」
雨はまだ勢い強く音を立てて降り注いでいる。 いつしか怖いぐらいの轟音になっていた。
「ごめんよ。こんな時間にお邪魔して。」 沈黙を破り、時計に目をやった。 「いえ。いつでもお越し下さい。」 腰を持ち上げて、今度はきちんと出入り口のドアへ向かう。 五十嵐もそれに続いた。 「待ってて、くれるかい?」 「ええ。当たり前じゃないですか。」 振り返った大河の唇の、キュッと両端が上がった形を確認し、自分もそれを笑顔で返した。 明日、頑張りましょうね。と、作った握りこぶしを下ろす直前の出来事だった。
「うわっ、」 咄嗟に目を閉じた。 窓の外に閃光が走ったかと思うやいなや、地響きのするような大きな音がして、それっきりプツっと、窓から見える戸外も、部屋の中も、光を失ってしまった。 空はそれでもまだゴロゴロと唸りを上げて、不満足を訴えているふうにも聞こえる。 雷が帰してくれないみたいだよ? と、音と音の合間に、どう仕様もなくドアの前で立ち往生しているらしい、大河の声がする。 五十嵐も同じだ。 ただし、五十嵐と違い、大河は事体を楽しんでいるような声だった。
「い、今懐中電灯を…」 「いい。」 「し、しかしっ、」 「五十嵐っ。」
雨も止んでいない。 大河の制止から、五十嵐の声が聞かれなくなったが、それが沈黙と呼び難かったのは煩い風雨の音のせいなのだろう。 「きっと、すぐ復旧する。」 「…は、はい。」 嵐の音に時計の秒針の音は綺麗に混じり、騒がしさをもり立てるのに少し貢献した。
何故か息を潜めるようにしてしまう。 暗いからだろうか。 部屋のどの辺りに立っているのだろう。 大河と、自分は。
「どうして」 声がする。 「五十嵐、」 「大河さまっ…」 ばふり、と腹に何かがぶちあたったと思えば、それは大河の上半身だった。 手を前にやると丁度そこには大河の背中があって、自分の背には彼の腕が回っていた。 「どうしたんですか…」 皮膚の感覚神経だけを通して、大河の頭が自分の胸にもたれ掛かった体制を理解した。 薄いTシャツを通して、少しだけ早くなった胸の鼓動が伝わりそうだったが、構わず肩に手をやった。
「五十嵐。 どうして、大人たちは嘘ばかり吐くのだろうね。」
今日の自分はどうかしてしまっている。 「大河さま。 どうしてお父さまは『早く帰ってきなさい。』と、仰ったんだと思います?」 こんな雨の日に。 「…息子を心配する父親に、何か理由があるというのかい?」 「今日、何日だったか覚えていますか?」 夜になると、時折に感じる不快感。 暗闇でそれは活性化する。 「4月…14日だろう?」 全ては愚痴だ。そうするだけで安心するから。 「…もう15日ですよ。きっと。」 ああ。 「お誕生日でしょう?」 ぎゅっと腕に力を込めた。 今はただ触れていたいのだ。
「…照れくさいんじゃないでしょうか。 きっと。」 僕はどうすればいいのかが分らない。 肩に五十嵐の手が降ってくる。
ざあざあと雨が降っている。 その音が増長させるかのように、どきり、どきりと詰まるものが高まった。
どうだろう。この繊細な彼を受け止めるのに、自分のこの手は無骨すぎやしないだろうか。 目を離すと、いいや、それでなくとも大きな指先からは全てが、するりするりと滑り落ちてゆきそうだ。 そう。ほんの少ししか残らないで。 手を伸ばしても届かない所で空を見つめる彼に、追いつけることはない。 それどころかきっと、何時の日か彼は自分など存在しなくとも差支えなくなるのだ。 近い将来。もしやすると、もう既にその日は訪れてしまった後なのかもしれない。 今、吐息の触れるぐらい側にいる彼はそれぐらい、遠く、高い。 けれど抱きしめてやりたいのだ。 エゴだと自己認識しようが、何だって、仕方がない。 彼が泣いていたらそばに寄り、泣き止むまで居てやりたい。 ただそれだけを求めて生きていたって。 思わず顔を埋めた。 真っ暗闇で、まだ残っているカカオの香りが、鼻をくすぐる。
「…大河さま」
今はただ触れていたいのだ。
大河の頭全部を包んだ掌からは、血液の流れの温かさがトクトク伝わってくる。 もう、髪は乾いた。 「五十嵐…。 僕は、 頼りにしているんだ。」
すうと息を吸っても、まだ少しだけドクンと、胸の中で弾む物が残っている。 暖かいような、眠たいような不思議な感覚に、そっと目を閉じた。 大河も同じようだった。 なんとなく、瞼の音がしたのだ。
「もう行くよ。」 部屋に再び明かりが点るなりの第一声は大河だった。 その、いつもと全く同じからりとした声は、五十嵐を多少拍子抜けさせたが、それ以上に安堵感も齎した。 相も変わらずなのは窓の外の豪雨である。 それでも、雷の方はあれから2、3度ぴかりと光ったぐらいなので、そろそろ終息の方に体を向けることだろう。 大河も包まれた腕の中で体勢を変え、ドアへとまた歩み出した。 0時57分。 送ります、との呼び掛けに、いや、独りでかえるよとの返答がきたので、五十嵐は傘を持たせようとだけ階段を下った。 ほんの少しだけではあるが、どことなく嬉しそうな顔と一緒に。 五十嵐はその顔が好きでたまらなかった。
「明日、頑張りましょう。」 再び作られた握りこぶしが、今度こそちゃんと下ろされたのに答えるかのように大河は一歩を踏み出す。 彼はもっと、もっと強くなれる。
「きっと、もう晴れるだろう。」 ピシャピシャという足音を、五十嵐は黙ってじっと聞いていた。
雨が降ってはいたものの、季節はまだ4月半ばだった。 それは彼が聖アローズを去る半年以上も前で、それどころか未だ永遠のライバルとも出会っておらず、そして彼は、雨のせいか少しだけ大人びていて、幼かった。 |